10通目:2025年7月8日
「ふらふら生きる」

りんちゃんへ

 今日は朝6時に目が覚めて漫画読んでたんだけど押入れの方からガサガサという音がして、まずゴキブリを疑えよって感じなんだけど人間いるのかもって思って、だとしたらいつからいんの? なわけないのに想像が膨らんでしまった。ずっとそこにいたけど気づかれなくてさすがに気配出してみようかなみたいな遠慮がちな存在感のある音で怖すぎた。まあ、ゴキブリだったんだけど。こういう時に限って同居人は出張。別に一人暮らしの時もいくらでもゴキブリと目があったし、りんちゃんと住んでいたムサコハウスでも……。でもなぜか今日はゴキブリに怯える演出? 演技? が加速して家を飛び出した6時半。ずっと歩いている。夏の朝は予感が隠されているような奇妙な静けさがあって好きだ。水分が抜けてきて縮こまったから転がれる枯葉と一緒に坂を降りていると、散歩している犬と人にすれ違った。いつも履いているお気に入りの靴は洗ってからもう1ヶ月くらいバルコニーに放置していて(涙)靴底が頼りなくてあんま履いてない靴に足を通した。この靴、地面とのやりとりがスムーズすぎる感じ。地面。ある。地面。ある。って確かめさせられるみたいで疲れる。ゆっくり散歩しながら7時からやってる喫茶店に入って、いま、お手紙を書いている。いろんな人がいるよ。いろんな人生がおんなじ味のコーヒーを飲んでいる。

 お手紙ありがとう……。泣いた。この29、30歳のサターンリターンをりんちゃんとの往復書簡『底に見えあかり』と並走したこと、助けられているしきらめきだよ。いつもありがとう。生きてほしいし、変わり続ける自分の天気と一緒にどうにか生きていこう。
 りんちゃんに出会ってない人生は考えられない。記憶がないことでお馴染みの金子由里奈の中にも思い出がたくさんある。椅子は座るもんじゃなくて、椅子の上に立つもんだって教えてくれたのもりんちゃんだった。「でっかいわん」ってただ叫んでみること、どうしようもない時にティータイムに手を伸ばしてみる方法も教えてくれた。りんちゃんって言葉の人でもあるのと同じくらい、わたしにとってずらしの人だ。そのずらしはいつもほんとに愉快! そういえば最近、昔の日記にりんちゃんのこと書いてあるの見つけて、眩し過ぎて思わず手を目元にこんな感じでこうしちゃったの。引用してみる。2021/12/21の日記。

 りんちゃんのある企画も通って、本を出すことが決まった。朝お茶をしながら、その本がわたしの本棚に一生あることが嬉しくて泣いた。「わたしもこの生活が好きだけど、ずっと続くとは思ってなくて、きっとりんちゃんとなら喧嘩別れとかじゃなく話し合ってこの生活に終わりが来るとおもうけど、その時期にできた本がわたしの本棚に一生あることが嬉しい」ってぜんぶの感情がぶわーってなって号泣。わたしの感受力やっぱキモいなーって笑ってたら、りんちゃんが「まだ存在しないものに涙を流せるからこそ映画を作れるんだとおもう」って言ってくれた。やっぱり一緒に暮らせて嬉しい。さんかく窓の外側は夜、ありがとうの儀を執り行いました。


 「まだ存在しないものに涙を流せるからこそ映画を作れるんだとおもう」こんなこと言ってくれるの、あなただけよ! 私の家にある『布団の中から放棄せよ』がプロジェクターになって、ムサコハウスのリビングを投影している。(『眠る虫』の人間プロジェクターのように)たまに日記帳とか制作ノートを見返すんだけど、そこに書かれている言葉がたとえ今の自分を傷つけるものでも書いてよかったってぜんぶに思うの。なんでなんだろ。なんというか、これも投影文字? いまの自分がプロジェクターになって、ノートに言葉の像を結び直す行為自体がなんだろ、祝福? に近い水が心に滲む。うまく説明できない。自分が自分が自分が乱反射! って感じ。あれ、よりわからなくなった。。でも、この往復書簡もマジでぜったいの宝物だよ。りんちゃんは言葉を残す行為そのものをどう捉えてる? それにしても「さんかく窓の外側は夜ありがとうの儀」というのは……何? 覚えてる?

 仕事、心からお疲れ様!!!遠隔ハグ!!!
 本当によく頑張った。お疲れ様会やろうね! そして、ふらふら生きてこー! 私も2025年、それを頷ける瞬間が増えてきたよ。自分も一時期は「職業監督」としての道を考えたりとかしてたけど。いまはふらふらしてる。ぜんぜんお金なくても詩は死なないし、バイトしたり、手段を選ばずたのしいこともぜーんぶやりたいし、もちろん動いている映画の企画も丁寧にやりたいし、ふらふらと生きていく。

 てか、「ふらふら生きる」って言葉の捉え直しをしたい。軸がなく不安定、地に足がついていないとか、ネガティブな意味にされがちだけど、実際には、自分の足でその都度立ち方(というか寝方でもあり、座り方でもあり、、存在の仕方)を考えて、予測できない世界を身体ごと引き受けながら生きていく能動的な生のかたちだと思う。資本主義・新自由主義社会への抵抗であり風通しでもある。ふらふらしながら感受の種をあちこちに蒔きまくって、蒔いた種すら忘れたりしながら生きていきたい。
 北村匡平著『遊びと利他』に、公園のネット遊具についてのユニークな批評がある。編まれたロープが蜘蛛の巣みたいになってて、子供たちがよじ登ったり、ただ寝転んで揺れたりしているあれ。子供にとってイリンクス(目眩の遊び)って身体感覚や空間認識だけでなく、自己と他者を学んでいく大切な遊びらしい。そして、自分が楽しんで揺れながらいつの間にか誰かを揺らしているということが協働的な身体性や「自利利他」(仏教由来の言葉で自らを充たすことで他者を助け、他者を助けることで自分も豊かになるみたいな循環を表す)が生み出されることでもあると批評していて。 ふらふら生きるってこのネット遊具みたいな生き方に似ていると思った。制御されず、他者と出会い、共に揺れることを受け入れるっていうか、それは創造性や協働の種でもあって、自分を完全にコントロールしようとせず、予測不可能な揺れも受け入れながら、その世界に生きる他者と一緒に世界を攪拌していくってことでもあると思うの! ネガティブ・ケイパピリティ公園の実践って感じ。私の揺らしがりんちゃんの揺らしが読者の揺らしが世界の揺らしが私の揺らしになっていく。(てかいま思ったけどムサコハウスはそんな揺れの実践の場所だったし、冒頭に言った「ずらし」って揺らしでもあるな)こんなふうに、誰かと一緒にふらふらと揺れることを、もっと社会の営みにも持ち込みたいと思う。でも、今の社会はどうだろうか?

 6月のプライド月間に引き続き、7月は障害プライド月間ということをアクティビストの睡(sui)さんのインスタ投稿で知った。社会モデルとしての障害者の権利と訴え、それこそ社会によって内面化された「恥」を自分の存在で裏返していく。わたしは明日もバイトに行き利用者の隣を歩く。  同時にこの国では、そうした声を無視したり、封じようとする動きも強まっていて、しんどい。今月は参院選もあるが(マジで頑張ろう)、「日本人ファースト」なんてもろに排外的なキャッチコピーが、子供たちが揺れながら遊ぶ公園の入り口にべたべた貼られている。ヘイトが当たり前の顔して選挙に出てる。おかしいだろ。外国人に対するデマが拡散され、トランプ的なムードが日本にも入り込んできてる。なんでこうなっちゃうんだろう。たぶん、社会がいま余白をどんどん失っているからなのかな。社会、揺れてない。役に立つ/立たない、合理的/非合理的、日本人/外国人、そういう二項対立、もっとぶち壊して揺らしたい。 いつから私たちは「わからない」ことに耐える力を失ったのだろうか。「よくわからない他者」と、とりあえず共にいる。その時間が政治だろとも思う。ふらふら揺れながら、自分の在り方を通して、社会のほうをずらしていきたい。選挙権がない人や、景色、植物のために、あらゆる人が安心して暮らしていけるために。参院選、渾身の一票を投票する。

 8通目のお手紙を書いてから何してたっけと手帳を見返すとなんか色々やっていた。6月末は立命講義に1年ぶりくらいに行ったよ。去年の私は「私が教えられることってなんかあるかな…」って、卑屈ひくひくだったけど、今年は「私こそが教えられることあるやろ!」って誇りとともに新幹線乗ってその変化が嬉しかった。先生方とも久々に話せて、大学もう一回入りて〜って思った。
 あと。ソウル訪問にも行きました! 韓国には8年前にフランスに遊びにいった時に出会った韓国人のアーティスト、KIKIが住んでいて会いに行った。チェンマイのヤンキーのゆうひと、ゆうひの友達のうっちー(初めて喋った)と、カズヤナカヤマと。みんなアーティストだから、韓国のキュリエーターに会いに行って、なんかしたいってわくわくコーヒー飲んだりした。
 3泊4日だったんだけど、こんなにも帰りたくないというときめきで満たされるのは久々で驚いた。楽しかったの。でも、帰りにトラブって誰にもお土産買えなかった(泣)
 自由行動の日、「戦争と女性の人権博物館」にひとりで行った。麻浦区にある小さな博物館で、日本軍の慰安婦制度のもと戦時中に性暴力被害を受けた女性たちの証言と記憶を保存している、大切な、小さな博物館。
 重い扉を開けると「日本人として」という感覚が指先に走って緊張した。案内は日本語訳もあるから、歩みを止めながらハルモニたちの声を聞いた。日本軍が配っていたコンドームの展示が生々しくて忘れられない。展示の最後にはハルモニたちにお花を供えられる場所があるんだけど、名前の書かれていない石碑がたくさんある。名前の残っていない多くの声と共に時間を過ごした。

 「制度」として性暴力を正当化したことが何よりも問題で、戦争責任を追求すべきだと改めて感じた。  その夜、みんなでサムギョプサルを食べている時にKIKIに「戦争と女性の人権博物館に行った」というと、驚いた表情を見せた後で声を振るわせて「ありがとう」と何度も言われた。KIKIはわたしと年齢が近いけど、その世代にもこの問題は切迫感のあるものだと感じたし、日本でもこの過ちを学び続けなければならないと思った。

机周り、カーテンを通して夕焼け

 りんちゃんの今回の手紙を読んで、人間ってなんぞやってぐるぐる考えていた。
『人間が生きていて何かが終わることなんてあんのかな? 本当は何一つ終わらないような気がする。生きてても死んでても、存在は存在していて、人の意志は「ある」。』というのが、わたしにとってはなんか土っぽいと思った。わたしは人間を土に近い存在としても考えたい。地球が産んだひとつの自然だし、だから、人としての悲しみにあまり閉じ込められたくなくて、どうにかして、自然としての自分を取り戻したいと思っている。この欲望が人間なんだけどね。
 それこそ、揺れなさ、魂の領域っていうのはこの「自然」的な部分なのかもしれない。わたしは思考する前に、自然である。わたしがいるということはそこに植物が揺れているのと全く同じで、なんでもない。そしてわたしは植物の色が変わって、水分が抜けて縮こまって坂道を転がって、消えていくように、そういうものなのだと思う。
 一方で、「人間として」変わらない部分もあると思う。私の中で、妹たち(過去の自分たち)と変わらないこと。なんだろうか。ひとつに猪性な気がする。ズコーって走って、転んで、怯えたりしている。パートナーにも、幼稚園の友達にもあんたは猪って言われる。あとは、飛躍力と誤読力。それは理解力がマジでないから生まれたんだっていま気づいた。私、理解力ほんとないの。なんとなく知ってると思うけうけど。説明されてもわからないことばっかだし、「ほお、そお……わからん」みたいになることがありすぎて、だから昔から「飛躍」とか「誤読」でわからなさを突破してきた。そういう人間な気がする。ああ、それで蓄えた飛躍や誤読がいま己の映画世界に繋がっているのかもしれないな。私、私の存在をたくさん使って映画を撮っているなあ。なんかすごいこと気づかせてくれてありがとう。
 りんちゃんはわたしから見て、変わったところもたくさんある気がする! 変わったっていうか違う側面が見えてきただけなのかもしれないけど。ラブリーな側面がたくさん見れて嬉しいぜ。あ、そういえば友達について今回の手紙で話そうとしてたの忘れてた。最近、みさちゃん(ムサコハウスにもきたことある漫画家)と友達ってなんだろうって話してて。みさちゃんは「情?」って言ってて、わたしはその時「通路かも」って言ったんだけど。これがあとから気持ち悪くなってきて……。なんか、友達に期待している感じがあるというか。そんな感じがしたの。小学生が音楽会で歌う歌にありそう「友達ってなんだろう」りんちゃんにも聞いてみたい。

 切り替えが大好きなので、言わせてください。
 2025年、下半期がはじまりましたね。私は映画撮影のために準備を怠らず、きっと待ち受ける困難を「解決」せずに話し合い続けたい。あと、髪の毛染めたい!
 たくさん歩く! りんちゃんはどう?
 はやく会わねば。

金子より

最近よかったもの
・なんと言っても『青野くんに触りたいから死にたい』😭
色々グロいけどなんか、時間共産主義?みたいな展開がアツかった。

・月ノ美兎さん
はい。今爆加速中です。月ノ美兎の生きすぎている感じが眩しい。

・『ドールハウス』
なんかケアされてるって思った。ケアするホラー。わたしを放任しない。

・『最後の人』
1924年に製作されたモノクロのドイツ映画なんだけど、カメラって物語世界でやっぱり幽霊じゃんって思った。

・歩行
最近歩行にハマってる!一日一万歩を目指して。

金子由里奈(かねこ・ゆりな)
1995年、東京都生まれ。映画監督。
立命館大学映像学部卒。立命館大学映画部に所属し、これまで多くのMVや映画を制作。
自主映画『散歩する植物』(2019)が第41回ぴあフィルムフェスティバルのアワード作品に入選。
長編『眠る虫』はムージックラボ 2019でグランプリを獲得。
2023年に『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』が公開。

高島鈴(たかしま・りん)
1995年生まれ。ライター、パブリック・ヒストリアン、アナーカ・フェミニスト。
著書に『布団の中から蜂起せよ』(人文書院)、共編著に『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』(現代書館)がある。
現在は小説「ゴーストタウン&スパイダーウェブ」(太田出版)をWeb連載中。

往復書簡
『底に見えるあかり』

高島鈴・金子由里奈

一通目:2024年10月16日
お元気ですか? 私は病気です。

二通目:2024年11月12日
私は表層は元気です!

三通目:2024年11月19日 ※公開終了
祈りは無力じゃない

四通目:2024年12月25日 ※公開終了
しゃがみ年

五通目:2025年2月21日 ※公開終了
どんな罪を犯した人間だって存在を否定されていいと私は思わない

六通目:2025年3月9日 ※公開終了
ベンキョは続く

七通目:2025年3月11日 ※公開終了
「いつになったら私って落ち着くんですか!?!?!?!?」

八通目:2025年5月7日 ※公開終了
「Blowin' in the Mind」

九通目:2025年6月9日日 ※公開終了
「会社を辞める決心をした」

十通目:2025年7月8日
「ふらふら生きる」