二通目:2024年11月12日
私は表層は元気です!
高島鈴さま
りんちゃん、お手紙ありがとう。わーん、なんか泣いちゃったよ。どこで泣いちゃったかというと、友達と遊んだ帰り道に電車でにこにこしているりんちゃんが立ち現れて嬉しかった。
りんちゃんは人や言葉を大切にする人だから、人や言葉からとても大切にされているのだなと感じました。りんちゃんの病気とのお付き合いがいい感じになるといいな。いつもあなたの生存を心から願っているよ。
わたしは表層は元気です!
ベランダに植えたコリアンダーがやっと発芽しました。秋植え本気か!? って思いつつ植えたんだよね。コリアンダーって2個の種子がひとつのシードに入っているつくりになって、早く発芽するためにシードを割ってから植えることを勧められたんだけど。割らずに植えたら全然生えてこなくて、後悔してきた時にぴょこと音を立てて鮮やかな緑が土にいました。発芽が口角を引っ張り上げた朝です。
植物も生まれるし、私たちも生まれた! そう、りんちゃん、お誕生日おめでとう!!!! お誕生日会も楽しかったね♡(わたしのお返事が遅くなっちゃたけど、蠍座の季節のうちに出せたはず!?)29年も生きていてすごいなあ、と自分に対しても思います。りんちゃんのおかげで、みんなのおかげで29の年輪がわたしの中にあるのだな。時間とは一向に仲良くなれそうにないので、あと17日くらいで50歳になっている気がする。
歳を重ねると強烈な記憶が曖昧になっていき、「見る」という行為の蓄積で他者の輪郭がはっきりしてくる(他者が解るという意味ではない)。人間はちっちゃきもいけど、みんなそれぞれに生きているということがわかってきて、自分がちっちゃきもいひとりだということもはっきりしてくる。だから、なんというか大丈夫なんだよね。大きなうねりのひとつの視線をやるしかないし、他者の視線には不誠実ではいたくないです。
切り替え! 小学生? くらいの時H/Kって流行ってた? うちの学校ではめっちゃ使ってました。H=ハナシ K=カワルケド。あれ、中学生だっけ。どっちだっけ。昔は小学生と中学生なんてコンビニか山かってくらい違ったのに、いまは花瓶に挿さった花束みたいで、どの記憶がどの花かよくわかんないし、なんか全体的に綺麗だなーって印象しかありません。それはわたしが情緒にノレた側の人だからなのかなって気がします。自我が芽生えたのが20歳すぎてからで、それまでぜんぜんシステムを回す情緒の危なさに気づいてなかった。あんま覚えてないけど、みんなでジャンプとかしてた気がする。突然海もいけるなと思ったけど、行った過去はない。そういう情緒をひとつの物語として受け入れている感じかも。TSUTAYAにあんだけ映画があるなら、突然海行く物語もありそう。でもそういう物語が「人気コーナー」にあると距離を感じるのかも。ずれるかもだけど(積極的にずらしていこう)小学生の卒業式「女の子」がみんな「スカート」履くの楽しみにしているのが気持ち悪くて、駄々こねて半ズボンで出たことをふと思い出した。
この前、東京国際映画祭で「女性監督は歩き続ける」というシンポジウムに登壇しました。自分はシス女性ではあるけれど、何も了解を得ずに「女性」や「娘」と名指されること違和感があったんだけど、「女性」とタイトルに入れるエクスキューズも主催の近藤さんに共有してもらったので参加を決めました。たくさん重要な議論があった中で、やはり男性社会の映画業界で監督として「勝ち残る」には「名誉男性」的にならざるを得なかった監督たちの背景を感じ心が苦しかった。
熊谷博子監督作『映画をつくる女性たち(2004)』というドキュメンタリー映画の上映もあった。東京国際女性映画祭第15回の記念作品で、20人以上の女性監督・プロデューサーにインタビューした記録映画。長い間、映画の現場に女性スタッフはスクリプターとメイクしかいなかった。男性の声が飛び交う現場で時間を管理するために「女性」の声を起用したという話も聞いたことがある。
映画の撮影中に「女性監督」だからという理由で、撮影中に照明を全部消されたとインタビューに答える監督もいた。「女性監督」を取り巻く環境は壮絶だった(過去形で言い切れない現状)。そういう背景もあり、映画内の監督たちのインタビューでは「映画監督は孤独でなければならない」とか「映画と心中」とかそんな言葉が頻出した。映画と心中したら映画も死んでしまうし、映画監督という仕事を権威的で孤高な響きにするようで嫌だった。でもこれ、別に昔に限った話じゃなく、今も孤独は映画監督という言葉に粘着している。孤独でなければいけない職業なんてあってたまるか! という感じで、それこそ、映画監督という言葉に纏う「雰囲気」をもぎ取りたいなと思った。
人の雰囲気とかあんまりよくわからなくて、物の雰囲気はなんとなく感じ取りやすいかも。骨董市とかに並んでいる物たちって雰囲気がある。物単体というより、何か携えてきている。雰囲気って堆積した「時間」なのではという気がしてきた。それ自体ではなく、それがまとったり引き連れたりしている見えない存在。人で言うと、習慣化された身振り手振りや声の音符、その日の天気と仲がいいとか悪いとか、そういう感じなのかな。人や物や場所の「雰囲気」 が混ざり合ったりしてその時の空間を作っている。撮影現場とか偶発性がたくさんぶっ込まれて空気を作るからなんも読めないし、それをはじめましてって楽しむ姿勢を大切にしたい。りんちゃんとお茶するときの場の雰囲気はなんだかあったけえです。二人ともつらーってなっていても、引っ張りあって、お湯の中で開いていく茶葉見たいなやわらかい元気さがあって好き。またお茶しようね。ティータイムがわたしたちを待っている。
それにしても映像には見えないはずの「時間」や「雰囲気」が映るので不思議だし、時間が映るんだったら幽霊いるやろって気持ちになるな。幽霊もきっと、それぞれが雰囲気を纏っていて、場所の空気感に影響を及ぼしているのかな。なんだか町屋良平著『生きる演技』を思い出す。
最近、幽霊に暴力を振るわれたことがある人の話を聞きました。その人は「あの人たちは勝手に身体の中に入り込んで、深い傷を抉るような記憶を流し込んでくるから最悪だ」と言っていました。見たくもない映画を強制的に見せられるようで最悪だし暴力的だなと思う一方で、幽霊は誰も話を聞いてくれなくて自分で反芻するうちにその記憶がどんどん肥大化してひとりじゃ身体を保てなくなるのかなとか考えた。幽霊の公民館みたいなものがあればいいのに。
そこでですね! りんちゃんの幽霊観や死生観を改めて聞いてみたい!
むかし、資格の研修を受けているときに「どんな場所でどんなふうに死にたいか」というテーマでグループワークをしたことがあった。「家族に囲まれて家でパーティみたいに死にたい」「ゴールテープ切って死にたい 今まで出会った人がゴールの周りで祝福してる」「絶対に一人で眠るように死にたい」「施設で誰にも迷惑かけずに死にたい」いろんな死の望みがあった。わたしはその時なんて言ったか忘れたけど、いまは昼寝してる時カーテンから太陽の温度が皮膚まで届いてるあの瞬間に死にたい。ひとりがいいけど、大切なみんなの記憶が座っているソファで死にたい。死んだ後は絶対に生まれ変わりたくないし幽霊にもなりたくない。魂の電源が切れて宇宙がいい。
研修の昼休憩、突然「お昼食べよ」って話しかけてくれた人がいた。タイからきた人で、ラーメン啜りながら「わたしこの資格がいのちだから」と言っていた。移民を取り巻く環境も、トランプがまた大統領になったことで厳しさが加速しそうで抗いたい。「自国」(キモい言葉)を愛し他は排斥することに豊かさなんてなんもない。国単位でももっと利他していったら状況は変わるけど夢物語かな。でも! 先月、池袋ジュンク堂で藤高さんとのトークでりんちゃんが言っていた「ユートピアをまず信じることはアナキストとニヒリストを分ける」という言葉が強烈に残った。だからわたしも言いたい。戦争のない社会は絶対に実現する。
四季は日本特有ってあの感じ、なんなんだろうね。最近読んで良かった本、奈倉有里著『ことばの白地図を歩く』にもその話が出てきた。本の中で、強引に引かれる「異文化」や「自国の文化」の境界に対する批判もあった。「自国」の文化を学ぶことは教育委員会が言う「日本人としてのアイデンティティの確立」のためではなく、「〇〇人としてのアイデンティティ」を、ほぐし、解消するためにあるよねって、「異」などという考え方はとっとと忘れてしまおうってユニークな言葉が規範をほぐしていく良い本だったし、語学に対するやる気が出る本でデュオリンゴ! の気持ちになった。
四季は人を殺すね。春に殺される! って逃げ回ってた友達を思い出す。四季って人間が名指しただけで地球が死なないためのバイオリズムだと思うし、それがないと死ぬ動植物もたくさんいると思う。人が勝手にそれに情緒を感じている。地球は生きているだけなのにともなんか思った。←人間に対してめっちゃ残酷なことを言ってる気がする。
今日はガイドヘルパーのバイトで疲れました。ファミレスでご飯食べてから図書館行ってずっと紙芝居を読んでいた。やなせたかし作・絵のアンパンマンシリーズはどれも切迫感があって、生きるとか死ぬとかそういうワードがたくさん出てきた。『それいけ!アンパンマン』では、雪の谷間に落ちた子猿が食料もなく「ひもじいよ~」って叫んでたら、アンパンマンが自分の顔を差し出して助けるんだけど、そしたら顔が半分無くなってバランスが保てなくなって、子猿とともに谷間へ真っ逆さま。利他はバランスだなと思った。緑谷出久(読者向け注:『僕のヒーローアカデミア』の主人公)みたいになるともう利他の怪物のようだから避けたい。みんなが利他をちょい出しできれば、緑谷出久もアンパンマンももう少し楽になれるかもしれないし、利他をヒロイックなものから日常に引き戻したいと感じる。
今日は結構、利用者さんに傷つくことを言われました。社会モデルにおける障害者に対し差別的な発言をしてきた人がいてそれを容認・助長してきた社会があって、その発言は障害者当人が誰かを傷つけるときの発語として響いてしまう。この最悪な回路が嫌です。どうにかしたいから、隣を歩きたいし、機会があったら書きたいと思っている。
でも楽しいこともたくさんあった。利用者さんが「あ、有名がいるよ」って電信柱指差して電信柱にサインもらった。確かに電信柱、みんなに知られてはいるよなと感動した。電信柱のサインは○が三つならなで真ん中に一本線みたいなサインで意外だった。歩き去っていく犬に挨拶して無視されたりしてて「犬に無視された ズコー」と笑っていたりして良かった。東大パレスチナ連帯キャンプもいきたかったな。ディスコードで知った! 最近はディスコード以外のS N Sをマジで触っていなくて心地良くもあるけど、この社会の市民運動の一つの形に参与していない焦りもある。いまも言い訳みたいに書いてる。昔は、S N Sなんて挨拶ばっかりしていたよね「おは」「おはありです」「お疲れ」「おつありです」
わたし最近、挨拶のことが気になっている。CCさくら、小津安二郎の映画、挨拶ばかりしている。私を元気にするのは給料明細とかじゃなく挨拶です! ここでいう挨拶はあなたがいるという了解のことで、視線とかだけでも成立する。友達と会って「(右手を挙げる)」とか、「またね」とか最高だよね。りんちゃんのお手紙でそれを再確認した。ボルネオ島に暮らすプナンの人たちは「了解」の中にいるから挨拶が要らんのかな。
りんちゃんとの出会いも勇気の挨拶だった。『眠る虫』の上映に来てくれて、上映後に話しかけてくれよね。あの挨拶がなかったら一緒に住んでいなかったと思うし、りんちゃんとは一緒に住んでいるとき、毎日お互いの存在に了解しあっていてとても心地よかった。「へにゃー」って隣の部屋から聞こえて「うわー今日無理だねー」って、そんな了解がりんちゃんのいう「許し」の近所にいる感覚な気がする。
近所のいずみやまでよくお散歩したね。近所はいつしか近所じゃなくなるし、全く知らない場所が近所になったりするの面白い。その場所は誰かにとっては探検の場所だったり、初めて見る路地のうねり方だったりするわけで。
りんちゃんの好きな道路とか聞いてみたいかも! りんちゃんはわたしの景色の見方を褒めてくれるけど、話していてりんちゃんも景色をたくさん受け取っていると感じるから。ちなみにわたしの最近の推し道路は世田谷線の線路沿いです。歩道もあって、空が広くて、公園があるから跳ねる声もあって、コンスタントに電車も走ってリズムがある。そしていい道路の条件、犬もたくさん通る。あとは、表参道から渋谷に歩く道路も好きかな。オフィスが多いんだけどランチが高いからか、公園でキャンプ椅子を持ってきてお昼ご飯を食べている人とかいて小さいピクニックを通り過ぎるのが風通しいい。
お返事書いて学んだんだけど、ちょっとずつ書くとずっと考えちゃってどんどんわからなくなってきちゃう。次は一筆書きお手紙にしてみよっと。あと、ディスコードで近況呟くのちょっと控えようって思った(笑) りんちゃんと新鮮に会話したいから。
さ、まだ14時なので今日もがんばろー
牛乳ないのでいまから買いに行きます! またね!
金子由里奈
・相沢忠洋『岩宿の発見』
家族団欒という物語へ執着が巨大遺跡発見へ!?
・エセーニン詩集 内村剛介 訳
『ことばの白地図を歩く』に出てきて買ってみた かなり仲良くなりたい
・山田尚子監督『Garden of Remembrance』
マジでそんな幽霊の表象あったんだ! と思ってびっくりした
・もっとゲームやりたい!
・長谷川あかりのエスニックおでん
https://esse-online.jp/articles/-/27744
金子由里奈(かねこ・ゆりな)
1995年、東京都生まれ。映画監督。
立命館大学映像学部卒。立命館大学映画部に所属し、これまで多くのMVや映画を制作。
自主映画『散歩する植物』(2019)が第41回ぴあフィルムフェスティバルのアワード作品に入選。
長編『眠る虫』はムージックラボ 2019でグランプリを獲得。
2023年に『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』が公開。
高島鈴(たかしま・りん)
1995年生まれ。ライター、パブリック・ヒストリアン、アナーカ・フェミニスト。
著書に『布団の中から蜂起せよ』(人文書院)、共編著に『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』(現代書館)がある。
現在は小説「ゴーストタウン&スパイダーウェブ」(太田出版)をWeb連載中。