五通目:2025年2月21日
どんな罪を犯した人間だって存在を否定されていいと私は思わない

金子へ

 2025年になっちゃったよ! しかももう二月(本当に返事が遅くなっちゃってごめん)。時間が過ぎるのがあっという間すぎて震えます。この間友人との古いLINEを読み返していたら、25歳くらいのときに「30歳なんてあくびしてたらあっという間だよ」って書き送っていたログが残っていて、その通りだよ〜という気持ちになった。今年も突っ走ったり、適宜立ち止まったりしたい。重要なのはむしろ後者かもね(「しゃがみ年」、大事)。

 2024年、私にとっては膿そのものみたいな一年でした。あまり詳しくは書けないけど、何度も生傷を作ったり、過去の傷も含めて複数の傷が再び開き出したり、まあ、はっきり言っていい年ではなかったな。もちろん友情に恵まれていることを再確認した一年だった、というようなすばらしい側面はあったのだけど、まあ、かなり辛かった。やりたいこともやりきれなかったし、孤独にも苛まれ続けた。何度も死にたくなって、そのたびにいろんな人たちに助けてもらいました。2025年の目標はとにかく「健康第一」、そして「自分を責めない」ことかな。休むときはちゃんと全部忘れて休んで、考えても意味ないことを考えて自責するのはもう終わりにしたい。意識改革の年にしたいです。

 金子の2024年総括を読みながら、金子と映画は人生単位できっと結びついていて、そこには言葉にできることもできないこともたくさん含まれているのだろうと想像しました。好きなことを生業にしていると、そのライフワーク(私にとっては執筆、金子にとっては映画)が生きること全部に絡んでくる感触があるよね。捨てられないぬいぐるみみたいに在るって、きっとそういうことなのかなと思った。金子の映画は見ているといつも過去が子どものように飛びついてくる気がします。かわいいけど痛い、優しくしたいけどちょっと怖い、振り払えないって分かってるけど一瞬振り払いたくなる。そういう感じです。不思議。いつか金子が撮った「過去ホラー」が見たい。過去が襲ってくるやつ。無茶振りかな。ホラー苦手だけど、金子の映画なら見たいです。きっと同じことを思っている観客は、私以外にもいっぱいいると思う!

 年始休みの1月4日、いつもお世話になっている母校の教授(H先生)と一緒に中野の旧豊多摩刑務所跡を散歩して回りました。旧豊多摩刑務所跡というのは、治安維持法で逮捕された思想犯たちが収監された場所で、小林多喜二が獄死したところです。今は中野平和の森公園という場所になっていて、門しか残っていない。赤煉瓦造りのとても立派な門が、たった一つきり。どうやってここで人が虐げられて亡くなっていったのかは、もう少し勉強しないと想像つかない感じだったな(そういう意味では、「オーラ」は分からなかった)。私たちが行ったときは移築工事中で、アクリル板越しの遠目にしか見られませんでした(子どもの頃から思ってたんだけど、すでにある建造物をそのまんま「移築」する技術って、なんか自分の想像を超えてる。絵本の『ちいさいおうち』で読んだときからずっとそう)。H先生と「これ不審者ですね!?」「不審者ですねえ」って言いながら、工事現場に向かって必死に背伸びしてカメラを向けていた。

 歩きながら先生にいろいろ解説してもらったり、後から調べたりして知ったのだけど、中野はものすごい軍事都市だったらしいです。中野というと中野ブロードウェイがある北口のイメージが強いけれども、最初開発されていたのは南口の方だけで、北口は1897年に陸軍鉄道大隊が移ってきてから発展していった街である、とのことだった。当時は軍隊の拠点が移ってくると数千人規模で人口が増えて経済効果がすごくあるから、軍隊の誘致というのも地域ごとに行われていたらしいよ(松下孝昭『軍隊を誘致せよ 陸海軍と都市形成』で読んだ/中野がどうだったのかはまだ調べてない)。その後も1925年に陸軍通信学校が移転してきたことで軍人の街になったようです(この学校はその後私の地元である相模原に移ったというから、それも興味深い)。あとはスパイ養成で有名な陸軍中野学校もまさに中野だよね。思想犯の監獄、スパイ養成学校、陸軍の施設……これらの盛り合わせが中野という街の基礎にあるわけだ。今はサブカルチャーの聖地ということになっているけど、少し街の表面を引っぺがすといろいろ出てくるもんだね。

 そういう「場所の古層」のことを考えていると、金子の言う「社会的に『いないことにされている』存在の方へ、首を少し傾けてみること」にも繋がるような気がしています。われわれの共通のテーマとして、なおかつこの文脈においては「死者」がそれに当たるかな。東京国立博物館のアイヌ・琉球の展示室問題も、朝鮮人陶工の無視も、「人体の不思議展」の好き放題に触れられる人体もそう(普通にびっくりしすぎた、何それ?)。今生きた肉体を持っていない者に対して、今の社会はあまりにも無礼だよ。
 せめて私にできることをしたい、といつも思うけど、やっぱり意思疎通できない相手にとって一番いいことが何かを考えるのは難しいです(これは死者に限らないけど)。金子の言うとおり、いっぱい想像するしかない。そして時には相手に踏み込む勇気も退く勇気も持たないといけない。ずっと試行錯誤は続くんだと思います。答えはすぐには出ないね。だから勉強し続けないといけない。

 さて、今回もいっぱい話題をもらった。『忘れられた都市』プレイしてくれてありがとう! 本当によくできたゲームです、あれ……。選択肢間違えると普通にNPCが会話してくれなくなるの、血が通ってる感じがしてかなり好きだったな。

 そして「アナキズムにおける罪」の話は、なかなか難しいね。
 去年(もう去年……)、YouTubeで期間限定公開されていた、こたけ正義感の漫談ライブ「弁論」を見ました。戦後最大の冤罪事件である袴田事件を扱った上で、日本の司法制度がいかにひずんでいるかを曝け出すような内容で、「ん?」となる部分もありはしたけど、たくさん笑ったし、同じくらい今の司法のおかしさに気付くきっかけにもなった。証拠とされるものの中には極めて曖昧な記憶に基づいたものから捏造されたものまでが含まれている可能性があって、それでも有罪と言われたら有罪。検察が起訴した人が99%有罪になる、死刑のある国。本当に気持ちが悪いと思う。司法がどんな過ちを含んでいようと、司法が死ねと言えば人が死ぬんだよ。そんなことがあっていいはずがない。そもそもどんな罪を犯した人間だって存在を否定されていいと私は思わない。死刑には絶対に反対です。

 それで、えーと、とにかく去年くらいからずっとそうなんだけど、法律に対する違和感というのが特に高くなってきています。映画『ヤジと民主主義』(一緒に昨年の年始に映画初めで見に行ったね!)からずっと感じていた。明らかに不条理な暴力が振るわれているのに、どうして法律家というエリートを挟んで司法に訴えかけないと、異議申し立てや「これは暴力だ」っていう社会的な合意形成ができないんだろうか? 三権分立とか言ってるけどこの国において内閣府と司法はずぶずぶだし(検察の人事に内閣が介入するとか普通にありえないし司法判断を国が無視し続けている例は同性婚筆頭にたくさんあるよね)、何も信頼できないのに、この列島において社会正義とは権力者が決めるものであり続けている。怖いよ! 

 金子が言う「加害に解決はなくて、未解決のままずっとここにあるということを確かめ合う対話が必要」という考え方は、なるほどその通りだなと思いました。「解決」という言葉はとても怖い。被害者に「解決したんだから黙れ」って言うことにもなりかねない。
 ひとりのアナキストとして思うのは、なぜ被害者と加害者の間で起きたことが、国家―司法による加害者への裁きにすり替わるのだろうか、という疑問です。あまりにも被害者が置き去りになっていないか? この仕組みの中で本当に「反省」「更生」がありうるのだろうか? 本当に最悪だけど、これでは「加害者は被害者が望むような反省を行わず、被害者の傷を知るきっかけもないまま被害者を逆恨みする」という状況が容易に発生してしまうでしょう。この社会では国家が自明になりすぎていて、国家―司法に与えられた罰の仕返しを国家にしてやろうと思う人はほとんどいない。その矛先が被害者やそれに近しい人たちに向きかねないというリスクが常にある。そして、加害者の人生は加害の後もずっと続くのだから、再び罪を犯さないような生き方をするためには、社会で孤立しないための環境と、継続的な対話が必要だと思う。いずれも現時点でのシステムでは不十分すぎるよね。国家は「加害のあと」を修復し続ける営みにおいて、はっきり言って邪魔ではないか、と私は思っています。

 最近読んだ『性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ』という本、すさまじかった。性暴力被害者のにのみやさをりさんが、別の事件の性暴力加害者たちと往復書簡をして、「お互いを知ることで再犯を防ぐ」ための挑戦を重ねていく、という実践のドキュメントでした。かなりつらい話も多いからみんなに読んでと気軽に勧められる感じではないけれど、「謝罪」とは何かを考えるために必要な本だと思ったな。性加害をした人は刑務所内でいじめられやすいので、同じ場所に集められることが多いらしいのだけど、それによって刑務所が「よりばれにくい手段」を共有する場になってしまうケースもあるという。そして実刑が終われば、加害者は「もう罪は精算された」と解釈して、過去を忘却していく。被害者が被害を精算・忘却できていなくても、だ。やっぱり監獄が隠蔽するものはあまりにも多い、と思う。修復的司法と監獄廃止が同時に実践されている例って、いわゆる近代国家に関してはまだないと思うんだけど、今後はその可能性が開かれていってほしいよ。

 「静寂」の重要性についても、いろんな話題に接続させて考えてしまった。
 「最後のゲーム(One Last Game)」っていう無料ゲームがあります(https://gooseladdergames.itch.io/onelastgame)。最近森美術館で始まった「マシン・ラブ」という展示で見た作品。最初はシンプルにボードゲームを遊んでいるんだけど、だんだん爆撃で盤上のコマが動いてしまったり、電気が消えて蝋燭の灯りだけになったり、何者かに激しくドアを叩かれたりして、穏やかにゲームを遊ぶことは到底できない。戦争や侵略が起き、静寂が奪われるということがどういうことなのかを、このゲームはすごく短い間にはっきりと実感させてくる。
 対話においても、静寂を許し合える形で行われる話がもっと増えてほしいけど、今やコミュニケーションにすらコスパが持ち込まれるので、本当に苦しいね。意思決定にコスパを持ち込むべきではない、と教えてくれたのは私の師匠だけど、これには常々同意しています。なんか、みんなで集まって黙ってぼやーってする会とかしたいな。私は黙るのが怖くてすぐ喋っちゃうんだけど、沈黙に緊張しない人間、相手の言葉をじっくり待てる人間になりたい。だらだらお花見とかする??

 なんか堅めの話ばっかりになったので最後にやわらかい話!
 なんか最近いろいろ吹っ切れてきて、前より呼吸が楽になっている気がします。ちょっと前に親友(※マジで他人に興味がないことでお馴染み、昨年の年始に一緒にたこ焼きパーティをしたあの人です)と電話したとき、電話口で「え〜お前も私と一緒にフラフラ生きようぜ〜」という超適当な発言をされて、それを聞いてなんか「あ、そういうのもあるのか……」ってなったんだよね。わりと長いこと安定したくてたまらなかったんだけど、今そこまで安定したいと思っていない自分がいる。まだまだおのれが変化していくのが面白いと思えるのも含めて、けっこう明るいです!

 次会うのは月末の鍋会かな? 数ヶ月ぶりなのでさすがにまだ渡せていなかった誕生日プレゼントを忘れずに持って行きます! 楽しみ!
 では、お返事は金子のペースで、金子の書きたいように、自由によろしく!

高島鈴

最近良かったものコーナー
・Shiroの香水(ホワイトティー)
なんか香りものほしいな……と思ってお試しサイズを買ってみたら、すごくいい匂いだった! 寝る前にシュッとして、お茶と果物のいい香りに包まれながら寝ています。人気があるのは「サボン」だけど、私はサボンよりホワイトティーの方が好き!

・映画「鹿の國」
かなり中世VIBES全開の映画。諏訪大社の「御室神事」という儀式を再現するドキュメンタリーで、諏訪大社の極めて独特な信仰のあり方が視覚的にも理解できる面白い作品だった。マジで「吸う中世」。

・お茶会兼勉強会、いつでもしたい。しよう〜〜。てか金子ハウスにも遊びに行きたいぜ。

・カラオケでYUKIが歌えるようになってきた
なんか最近の気づきなんだけど、ずっと声の出し方が違いすぎて歌えないと思っていたYUKIの曲が選べば意外と歌えると気づき、めっちゃ喜んでいる。YUKI、本当に宇宙。歌詞の世界観がすごい。「COSMIC BOX」が「月に生まれた人は地球には戻れない」から始まるの、本当にそのスケール感で感動してしまう。ちなみに私が歌えるなってわかったのは「誘惑してくれ」「ふがいないや」「私は誰だ」です。全部好きだな〜〜。

金子由里奈(かねこ・ゆりな)
1995年、東京都生まれ。映画監督。
立命館大学映像学部卒。立命館大学映画部に所属し、これまで多くのMVや映画を制作。
自主映画『散歩する植物』(2019)が第41回ぴあフィルムフェスティバルのアワード作品に入選。
長編『眠る虫』はムージックラボ 2019でグランプリを獲得。
2023年に『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』が公開。

高島鈴(たかしま・りん)
1995年生まれ。ライター、パブリック・ヒストリアン、アナーカ・フェミニスト。
著書に『布団の中から蜂起せよ』(人文書院)、共編著に『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』(現代書館)がある。
現在は小説「ゴーストタウン&スパイダーウェブ」(太田出版)をWeb連載中。

往復書簡
『底に見えるあかり』

高島鈴・金子由里奈

一通目:2024年10月16日
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二通目:2024年11月12日
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三通目:2024年11月19日
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四通目:2024年12月25日
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五通目:2025年2月21日
どんな罪を犯した人間だって存在を否定されていいと私は思わない