四通目:2024年12月25日
しゃがみ年
りんちゃんへ
お返事ありがとう! お返事を書いて点滅社さんとりんちゃんに共有したものを、いま書き直しています。手紙って「構成」が顔を出してこないっていうか、書いてたら書けてくるみたいなことあると思うんだけど、さっき出した手紙はりんちゃんのお手紙に段落ごとに答える形で書いちゃって、そういう構成になっているのがどうも気になっちゃって。
だから! 書き直している!!!!
りんちゃんに文章も褒められるのかなり嬉しい。なんか、一緒に住んでた時、編集さんをたくさんやってくれたね。書けないーうおーってなってる時、超実践的なアドバイスくれた。それからりんちゃんは「金子が今言ったことが面白いからそのまんま書けばいいよ」とよく言ってくれた。りんちゃんの文章にいつも魂を揺さぶられていたから、あなたに頷かれたことが書く勇気の始まりだったよ! ありがとう。
書けば書くほど指がどう動きたいのかをキャッチしやすくなったのが最近感じてることで、書くことがどんどん楽しくなっている。というのはわたしにとって、考えることが楽しくなっているということで、書く場所を与えてくれた皆さんに感謝。点滅社さんもありがとうです。書くことは通路作りだと思っていて、知っていたはずの場所を違う高さから見て、あの建物からあんなヘンテコな影が伸びるんだ! とハッとすることがよくある。りんちゃんにとっての書くという行為が死後も足掻くためにあることが聞けて納得だよ。りんちゃんの論考が載っている、「療法としての歴史〈知〉──いまを診る」を振り返っても(この文章大好きでよく見返すよ)、りんちゃんは人間が一人ひとり絶対的な他者であるということをつぶさに見る虫眼鏡を持っていて、眼差しの流動性を理解している。社会や権威がつくる「規範」の水槽で苦しい誰かを、りんちゃんの文章が息継ぎさせてくれる。なんか、あなたの書く文章はずっと動いている文章っていうか、言葉なのに固定されないのが不思議だ。もがいて捩れてわたしを掴み続けて、それはわたしたちが死んだ後でもそうなのだと確信している。かっこいい。わたしもそんな映画を作りたい! 死後も固定されない、フレームが揺らぎ続ける映画を撮ってみたい。
さて、そろそろ2024年も終わりますが、2024年はどんな年でしたか?(このお返事を書くタイミングが2025年かな。またお返事がおそおそですまん)
わたしは、2024年、肯定するまでにかなり時間がかかったけど、深くしゃがむという行為をやれていることをいまは膝を痛めないように労わりつつ、この人と深くしゃがみたい! とか、こういうしゃがみ方がしたいとか見つけられるようになった。2024年は、しゃがみ年でした。2023年に公開した映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を、2年くらいかけて好きになった。いくつか賞をいただいて、新作を楽しみにしていますと言われるたびにむず痒かった。いまも週の半分以上バイトをしながら、映画の企画をいくつか進めているけれど、「映画」が「商品」であるということの壁にいつもぶち当たっている。映画の途方もなさに辟易するけど、しゃがんでいると、物語世界の新しい道案内が突如はじまってたまにドキドキすることがある。こうやって、たまにドキドキすることをちゃんと受け取りながら、いつか公開されるであろう映画に丁寧に向き合っていきたい。
それから、わたしは果たして映画なのかということもずっと考えていた一年でした。健常者至上主義で、ルッキズムや広告と密接な映画を無邪気に好き! と言えない。でも、映画はとても大事なんだ。映画ではじめて世界と話せた気になったし、映画が出会わせてくれた人や景色があったし、わたしは映画のことを捨てられないぬいぐるみみたいに隣に置いておきたいと思っている。
それと友達の年でした。新しい友達ができたりしたし、たくさん支えてもらった。人間関係の変化を感じるっていうか、妹(過去の自分)の言動に怒りが湧くように、人間関係も変わっていくことの戸惑いもあったけど、同時にひらけている感じもしました。
友達って、会うとひらける。それぞれの友達の声と呼応して、口が新しい言葉を放っている。この文通もそういう自分がひらけていく感じがあって、ありがとう。
ひらける。来年のテーマは「開ける」です。Open。新店舗オープンなきぶん。自分をひらき、本をひらき、ひらひら踊り、監督作を「オープニング(公開)」とまでは行かなくても、ひらめきをめきめき伸ばしていきたいです。りんちゃんの2025年のテーマもよかったら教えて欲しいです。
博物館の話、どれも刺激的でもっと聞きたかった。八木詠美の小説『休館日の彼女たち』を思い出す。卒業した大学の教授から紹介されたアルバイトは、美術館の休館日にヴィーナスの話し相手をする仕事で、ラテン語の屈折に惚れ込み、話せるようになっていた主人公は抜擢される。主人公とヴィーナスの奇妙な友情が育まれていくお話で、そこ!? っていう想像力のツボが刺激されるお話。ヴィーナスは「自分の意思でモデル事務所に入った覚えもないのに」多くの他者に凝視しされることが、意思を持っていない空っぽのような気がすると言っていた。それがテレビで「展示」されている、皇族の姿と重なるシーンがあったり、物への批評が一方向にしかないことへの問いかけがあったりで、おもしろい小説だった。
わたしも映画の中で、非人間的なものの視座にビューンってするのをよくするんだけど、石や植物やぬいぐるみは無欲にただそこにいるだけで、人間のように感情を持たないとか言われる。そんなこたあわかってるわーよ! と思う。
わたしがそういう表象をするのは、映画が人間たちのものになるのを避けるため。非人間が人間の心にノックするために、人間が非人間に挨拶するためにやっている。まあ、そもそもわたしは人間以外になれないので、人間の輪郭を超えた視線は、想像するしかないのだけど。せいいっぱいに想像したい。そういう非人間的なものへの頷きが、結果として社会的に「いないことにされている」存在の方へ、首を少し傾けてみることに繋がるって信じているから。
だから、何が言いたいかって、そうやって展示物の感情的な部分というか、心や魂を(実在するとかはどうでもよくて)「想像してみる」という営みは学びの角度を広げるっていうか、本を捲る音が少し変わる感じがする。
オーラってあるよねえ。ベンヤミンがアウラの凋落とか言ってたな。絵とかは一回性があるけど、その後複製技術が発達してオーラがなくなってるみたいなこと。映画はいま電車に乗っている人ほとんどのポケットの中に300000本以上入ってるかと思うと、ほんとに!? って笑っちゃいそうになる。物語を常に携えることができるって、強い味方のようで足取りを重たくするようでもある。Kindle Unlimitedって、川の中に小石が数多に落ちていて、そのたったひとつを拾っただけという感じで、この世の物語のほとんどを手に取れない寂しさも付きまとう感じ……。なんか欲張りだな。そのうち、映画館とかも持ち運べるようになるんじゃないかってずっと思ってる。
東京国立博物館は、今年内藤礼の「生まれておいで 生きておいで」のときにはじめてしっかり見た。内藤礼の作品は、境界を消し去るっていうか、展示物が飾られている壁の模様まで見るように誘導してくるので、鑑賞っていうよりただ博物館を歩いていた。だからあんまり覚えてないけど、琉球とアイヌの部屋は流石にびっくりしたな。あれをみた子供は「ひとつの部屋」であることや、「日本の部屋」の続きであることを歩きながら体験してしまうから、本当にひどい。国立が何やってんだって感じだね。松倉大夏監督作品『ちゃわんやのはなし』というドキュメンタリーが、薩摩焼など焼き物のルーツを映画だったな。豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵の帰国の際に、日本の大名たちは朝鮮人陶工を日本に連れ帰ってきた。焼き物を触るときに、その文脈に目を向けないといけないなと思った。
忘れられない展示というか、忘れてはいけない展示がある。幼い頃に見た「人体の不思議展」。死体の尊厳が守られていないし、多くの議論を呼び中止に至った展示だけど、当時のわたしは人いきれにふらつきながら、まだやわらかい眼球をその「展示物」に向けていた。何より、倫理的にありえないけど触れられる人体があって、来場者が列をなして好き放題に触っていた。展示台から見下げる人体が、無抵抗に立っていることそれ自体が怖かったし、会場の喧騒と相反する人体の冷ややかな態度が水の中に大きい車がゆっくりと沈んでいくみたいに、記憶を息苦しくしている。この人は、わたしたちを忘れていないし、生者が死者にした冒涜を思い出し続けないといけないと、いま思っている。
あと! おすすめしてくれたゲーム『忘れられた都市』プレイし終わったよ! 超面白かった。
(※以下ネタバレです。これからやる読者の方は注意)
古代ローマでは、そこかしこに落ちていた生活の品々が展示物に変わって、人間との距離が生まれるのが奇妙だった。それをあの街に住んでいた彼らが見つめる。関わりが深いはずなのに、隔たりがある。でも、展示物もきっと、ガラスをものともしない力強さでこちらに関わってきているのだとも思った。展示物を見るときの態度が変わりそう。
それと「罪」とはなんだろうと考えた。国家が刑法を定め、罪が決められていくってどういうことなんだろう。いろんな心があるのに、例えばそれが強盗っぽいってなったら、「強盗」というシールを貼られる。それって変な気がする。国家のない社会では、個々人の話し合いで「罪」が決められるの? そもそも、「罪」という言葉も使われないのかな。わたしは加害に解決はないと思っていて、未解決のままずっとここにあるということを、確かめ合う対話が必要だと思っている。アナキズムにおける「罪」ってどんな存在なのかりんちゃんの考えを聞いてみたい。
幽霊・死生観の質問に答えてくれてありがとう。暗くなるようなことも、考えてくれてありがとう。南関東にやってくるキジムナー、飛行機に乗るんかな。りんちゃんは、からだめいいっぱいで、誠実に幽霊に向き合っていると思うし、それはりんちゃんが書いてきた文章を読んでも見えてくる。「二河白道図」の話を聞いて、大林宣彦の『さびしんぼう』とかテオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』とか、思い出したので、いつか気が向いたらみてほしい。
大人としてがんばろうって、ぜんぜん考えたことなかった。
大人としてお金がない! って言っているかもしれない。映画監督って、企画開発に何年もかかって、企画開発費(今は交渉してもらっているけど、これを読んでいる若手映画監督の方がいたらぜひもらってください)をもらえなかったりすることがあるからそれはおかしいよねとか。文化庁の事業に参加したときも、振り返りでお金がないです。これから志す人たちの支援をしてくださいみたいなこと伝えた。
あと、放課後デイサービスで働いていたときは、子供を規範に閉じ込めないように意識していた。子供が怒られる時って規範的なところから外れた時なの、おかしいよね。映画館で大きな声を出したり、道の真ん中歩いたり、別によくね? みんながそうなってもいいのかよ! とか聞かれたら、みんながそうなってもいいかもよ!? って答えてみたい。
特技:記憶違いをまた発揮してしまった。いなげやの屋上でよく作業していたな。ああいうスーパーの屋上にある、無料の場所に集まってぼーっとしていたところをただそっとしあっていた関係の他者がいた。いま元気かなとかは思わないけど、いたなということが思い出せて風が通り過ぎるみたいな心地になった。
最後に突然だけど。さいきん、気になっていることは「静寂」です。ガザやウクライナだけでなく、世界各国で静寂が奪われている。静寂がない世界って、恐ろしいと思います。戦争って静寂をなくすのだと思ってこわい。山の無音を聴いている時と、鳥が飛び立つ瞬間と、人がベンチから立ち上がる瞬間、冷蔵庫のじりじりとした態度。静寂をみつける意識を始めてみました。この写真も、静寂のカーテンだった。りんちゃんにとっての「静寂」とは何かを聞いてみたいです。
今日は14時から打ち合わせ、そのあとは森美術館で「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」を見にいくよ。タイトルから好きだけど、いい展示だったらりんちゃんにも教えよっと。
それから締め切りがいっこあります! 出す! 必ず!
今日もりんちゃんが自分で納得できることがひとつでもありますように。
それじゃ! またお手紙待っています。
金子由里奈
金子由里奈(かねこ・ゆりな)
1995年、東京都生まれ。映画監督。
立命館大学映像学部卒。立命館大学映画部に所属し、これまで多くのMVや映画を制作。
自主映画『散歩する植物』(2019)が第41回ぴあフィルムフェスティバルのアワード作品に入選。
長編『眠る虫』はムージックラボ 2019でグランプリを獲得。
2023年に『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』が公開。
高島鈴(たかしま・りん)
1995年生まれ。ライター、パブリック・ヒストリアン、アナーカ・フェミニスト。
著書に『布団の中から蜂起せよ』(人文書院)、共編著に『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』(現代書館)がある。
現在は小説「ゴーストタウン&スパイダーウェブ」(太田出版)をWeb連載中。
『底に見えるあかり』
高島鈴・金子由里奈