連載『明日の眼の裏』
虫の居所 後編
「あの……っ!」
私が例のシェアハウスへ向かっている時だった。
声をかけられたような気がしたので振り向くと、ライダースとブラックジーンズに身を包んだ、黒ずくめの幸が薄そうだが美人な女性が立っていた。スマートというよりは、“痩せ細った“と言ってもいいくらいの風貌だった。
「虫、ですよね!」女性は振り絞るような声で言った。
「あ……、はい、ご存じなんですか」私は言い終わる前に彼女の中にも虫がいることに気がついた。
「ええ。少しお話よろしいでしょうか」そういうと彼女は一刻も早くここを立ち去りたいといったように私の袖をつかみ歩き出した。「あなたには私の恋人のたまごが孵化した虫が入っています」歩きながら彼女は早口で話し始めた。「そこの喫茶店にしましょう」私たちは駅からほど近い薄暗い喫茶店に入った。
席に座りコーヒーを頼むと、すぐに彼女は話し始めた。
「あなたには私の恋人の虫が入っています」なるほど、先ほども聞いたが、そうなのだろう。
「私にあなたの恋人の虫が入っていると、どうなるのでしょうか」どうしていいかわからない上に女性経験の少なかった私は、年端の変わらない女性とお茶をするという事自体がちょっとした冒険であり緊張していた。
「虫を返してほしいんです。彼を返してほしいんです」彼女は涙目になり、感情的に言い放った。
「ど、どうやって?」私は困惑して尋ねた。
「……」彼女の目は一層に潤んでいた。「わかりません……。でも、せめてあそこの人達とは関わらないでほしいんです。あの人達は私の恋人を殺しました……。あなたには殺されてほしくない……」
殺された? 物騒な言葉にぎょっとした。だが、彼らが誰かを殺すなど到底考えられない。
「彼は桃源郷にいかれたのでは?」
「そんな話は嘘っぱちです!」彼女は語気を強めた。
「あそこの人達がつくった無理やり羽化を促進する装置で私の恋人は殺されました!虫をばらまくと言って、装置に繋がれた彼は虫に食われ、溶けかけた骨以外は何も残りませんでした……」彼女の涙はとうとう目に収まりきらず流れ出ていた。私はどうして良いかわからずおろおろするばかりだったが、彼女をとても不憫に思った。
「虫に食われている間苦しみ続け、あんな無惨な死に方をしたのに、彼は桃源郷へ行けたのだとみんな喜んでいました。私以外、誰もあの状況をおかしいと思わなかったのです。あそこの人達は狂っています」
彼女は声を震わせながら話し続けた。
「私と彼はあのシェアハウスで出会いました。二人で桃源郷に行くという目的の元、努めていたのです。しかし、彼が殺されたあの日から私は疑心暗鬼になり、すぐにあそこから逃げ出しました。あの装置は効率よく虫をばら撒くために作られたのです。私の彼は装置の実験台にされ、そして失敗しました。虫を撒くことには成功したようでしたが、思った以上の成果は得られなかったようです。成功すれば世界中の人が虫になると老師は言っていましたから」老師とはあの老人の事だろう。
「どうしてあなたの恋人のたまごが私に寄生したとわかったのですか?」
「わかるんです。あなたの中で孵化した虫はわたしの恋人のものと同じ香りがするんです」
「なるほど……」“わかる”という感覚は私もここ数日で何度も経験していたので、そういうものだと納得がいった。
彼女と私はしばらく話をした。あのシェアハウスで行われている事は老師のエゴだと彼女は言った。彼女自身、虫に苦しめられてあの場所へ辿り着き、一時は心の平穏を得ることができた。しかし、装置による虫のばら撒き行為によって、自分のように苦しめられる人が増えるだけのような気がしている事、桃源郷など幻想ではないかという事、彼の身体から産まれた虫を探しているという事、そして私に何度も「騙されないで」と語った。
ひとしきり話を終えると彼女は涙をハンカチで拭い「もうあそことは関わらないでください。彼の子供は私の子供です。今は方法はわからないですが、いつか必ず返してもらいます。あなたの虫を私の中で飼う方法を見つけます」
「……話が複雑すぎて、今の私にはわかりませんが、あなたの助けに少しでもなれたらいいと思います」
私は私の言葉に少し驚いた。女性と話して浮足立っていたせいもあるだろうが、彼女と会話をしていく中で、自分の虫と彼女の虫とが惹かれあっていると、確かに“わかった”からかもしれない。
そうして連絡先を交換し、彼女は去っていった。私はその間に一口も手を付けていなかったコーヒーをチマチマと飲みながら、今の怒涛の時間を思い返し、あのシェアハウスの事を考えた。彼女の言っている事がすべて本当なのだとしたら、私はあそこに戻らない方がいいのだろう。装置によって無理やり虫を羽化させられ、骨しか残らなかったという彼。状況を想像して寒気がした。しかし、昨日彼らと過ごした時間は、虫に寄生され苦しんでいた私の救いになっていた。彼女の話を信じたい気持ちもあったが、シェアハウスの人たちのこともまた信じたいのだった。どうしたらいいのだろう。
私は喫茶店を出て、ふらふらと歩いた。小一時間辺りを歩いたが、結局のところ気が付くと私はシェアハウスの前にいた。
とぼとぼと階段を上がり、部屋をノックすると「おかえりなさい」と中年の女性がにこやかに出迎えてくれた。私はさっきまであった不安や疑いから、一気にほっとした気持ちになった。
「聞いてください!僕選ばれたんですぅ!」満面の笑みで青年が玄関まで駆け寄ってきた。「老師が桃源郷に行く手伝いをしてくれると言ってくれたんですぅ」私は羽化を促進する装置の事を思い出した。 ほっとしたのも一時の事だった。
「どういった手伝いをしてもらえるんですか?」
「機械につないで、僕の虫さんたちを元気にさせるんですぅ!」やはりと思った。彼女の言っていた事は本当だったのだ。彼を止めるべきなのだろうか。わからない。しかし私が止めないとこの青年は死んでしまうかもしれない。迷った。そこが彼の求めている桃源郷なのだろうか? うまく頭が働かない。一気に色んな事があり、今の私は疲れきっていた。
「あれ? どうかしたんですかぁ?」
私の様子が何かおかしいと思ったのか、青年が首を傾げ心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「すみません。来たばかりで申し訳ないのですが、今日のところは道中少し疲れたので、帰らせていただきます」
私は誰とも視線を合わせないようにして、ドアを閉め、足早に今来た階段を駆け下りた。不自然だっただろう。しかし、彼女の話を聞いたばかりの私は恐怖の中にいた。青年は実験台にされてしまうのだろうか。虫に食い殺されてしまうのだろうか。今度こそ成功し、前回より拡散力の高い装置によって虫の世界が来るのだろうか。はたしてその世界はいい世界なのだろうか。桃源郷、天国、昨日のシェアハウスで聞いた話はとても魅力的なものだったはずなのに、安堵していた気持ちが一人の女性によってかき乱されてしまった。頭の虫も騒いでいる。
私はまた部屋にひきこもるようになった。時たま電話が鳴るが、シェアハウスの人間かあの女性のどちらかだろう。私は留守電を切り、布団をかぶり、寒くもないのに止まらない震えの中、騒ぐ虫たちの声を聞かないように努めた。
数日が過ぎたある日、頭の虫が落ち着いているのがわかった。不思議に思った。恐怖心がさっぱり消えたのだ。
私は食料調達ついでに外に出てみることにした。外に出た私は驚いた。そこら中に虫がいるのだ。
虫がいるというのは、虫が人間の形で歩いているのだ。人間のままという者の方が少ないくらいのように思えた。
ふと、あの女性の気配を感じた。その方向に歩いていると向かいから彼女がとぼとぼと歩いてきた。
「虫は拡散されたようですね」彼女の方も私を察知していたらしく、顔を合わせるとぽつりと言った。
「そうですね、とても晴れやかな気持ちになりました」
「私は逆です。行きかう虫を見るたび、死んだ彼を思い出して辛くなります」
そこまで言って、彼女は諦めたような笑みを浮かべた。彼女は絶望の中にいる。私はなんとか彼女を助けたいと思った。
「例えばですけど……」
私の中に一つの考えが浮かんだ。
「私の虫が羽化した時にあなただけがいる環境に身を移すというのはどうでしょう。山か森か、人のいない場所……そうすれば、私の中の虫があなたに寄生する可能性が高くなると思うのですが……」
「…………」彼女は考えているようだった。
「今わかったのですが、自分の中の虫もあなたの中に入りたいと思っているようです」
彼女は大きく目を見開き、真っ直ぐ私を見つめた。
「……いいんでしょうか」
「ええ」
そして私たちは、人里離れた場所に身を移すことにした。
電車も車もない場所。森の奥深く。二人はもしかしたら今いるここが桃源郷なのかと──。
『虫には虫の生き方がある』私たちは既に羽化した虫なのかもしれなかった。
ふぉにまる
短編小説を連載させていただくことになりました。ふぉにまるです。
基本的に主食は音楽と映画で、小説は高校生の頃ぽつぽつと書いていた程度で自信がないのですが、表現自体が好きなので楽しく書いていきたいです。
大雑把になりますが、1番好きな映画は『ファイト・クラブ』。漫画は『寄生獣』。小説は『ライ麦畑でつかまえて』です。
音楽は、USインディーやオルタナティブロック、UKロック、シューゲイザー、ドリームポップとかその辺が好きです。音楽を聴き始めたきっかけは母親の棚にあったブルーハーツのCDでした。日本のバンドだと他にはフィッシュマンズやたまなどが好きです。僕自身も10代の頃から宅録などの音楽をやっています。バンドも最近久しぶりに始めました。まだ動き出したばかりなのでバンド名も定まっていないのですが、そちらもよかったらよろしくお願いします。
全般性不安障害、反復性うつ病性障害があります。中学は一年生の夏休みから不登校。中学二年生から心療内科に通っています。都立高校に入ったものの対人恐怖のためまた不登校。高卒認定を取得し、日大芸術学部映画学科に入ったものの、病気が悪化し、またもや不登校からの中退。大学一年の時に発達障害(広汎性発達障害や書字障害)と診断されました。
屋良さんとは、たまたま他のアーティストのファンという繋がりで出会ったのですが、10代の頃から僕の宅録を聴いていてくれたらしく、変な人もいるなあと嬉しく思い、それからの縁で付き合わせてもらっています。
つたないところもあると思いますが、読んでもらって面白いと思ってもらえるようなものを書きたいと思います。なにより自分が楽しいと思って書けるものを目指したいです。よろしくお願いします。