連載『明日の眼の裏』
虫の居所 前編

 はじめは朝起きて髭を剃っているときだった。私は頭の奥でズルズルと音を立てる虫を追い払おうとして、髭剃りで顔を引っ掻いてしまった。最初は流行り病程度で済むかと思っていたが、虫の量や動きは意識するほど、激しくなっていった。食事をするとき、用を足すとき、眠りに落ちるとき、いつだって現れるようになった。 
 そして私は病院に通い、仕事を辞め、徐々にひきこもるようになり、寝たきりカップラーメンの自堕落な生活を送るようになった。 
 虫が這いずる音が聞こえる度、私は酒や睡眠薬を飲み、逃げるように布団に潜り込むのだった。 
 もうその頃には虫との簡単な会話が成り立つようになっていた。身体の一部とでもいうように私の中を自由気ままに行き来しているのがわかった。虫は私の中に巣をつくり卵を暖めているのだと言った。その卵が育つとどうなるのだと聞くと、新しい脳を探しに旅立つのだと言った。 
 僕自身はこんな生活は願っていない。そう伝えたが、虫は「虫には虫の生き方がある」と言ったきり、この話を続ける事を拒んだ。
「許せない」とも思ったが、憤るほどの力は残っていない。そしてその憤りをぶつける対象さえ定まらないのだ。「虫には虫の生き方がある」それをどこかで理解していた。今となってはそれが脳を侵食され理解させられたものなのか、自分の元よりの考え方であるのかはわからない。何を許したり許さなかったりするのだろう。 
 私の中にいるこの虫たちも何処かの誰かの中で孵化し羽化し、私のところへたどり着いたものなのだ。私もいつか生まれるであろう虫たちを他人にばら撒いて歩く日がくるのかもしれない。そう思うとなぜか少し愉快にもなった。

 精神科に行く電車の中での事だった。 
 女子高生二人がこちらをちらちらと見ながら耳打ちをしあっていた。
「自分の噂をされている」そう思った。
 鼓動が速くなり、血の気が引いていくのを感じた。パニックになり、次の駅で転げ落ちるように電車から逃げ出した。
 駅のホームの椅子に座って心を落ち着かせようと努力した。しかし、行きかう人々がこちらをジロジロと奇怪なものを見るような目で見てくるのだ。
「完全にバレている」そう思った。私はその空間の中で完全な異物として扱われているのがわかった。人々が怖くてたまらない。呼吸は乱れ、虫たちはいつも以上に騒いでいた。早く家に帰ろう。布団に潜ろう。そう思うのだが体は恐怖でこわばっていた。
 しばらくホームの椅子に座り首をたれうずくまっていた。すると、
「君、大丈夫か」
 見上げると、長く白い髭を蓄えて、白衣を身にまとった老人がいた。白衣は薄汚れていて医者には見えない。老人だと思ったが顔が髭で隠れていて、声からすると老人というにはもしかしたらまだ若いのかもしれない。
「虫だろう?」男は言った。
 私は「やはりバレている!」そう思い今すぐにここを立ち去り走り出したい気持ちに駆られた。返答しようにも何と返すのが正解かわからず声が出なかった。が、私の中の虫たちは途端に落ち着きをみせていった。
「そんなに怯えないでくれ。大丈夫、僕も君と同じだ」
「・・・・・・同じ?」
 困惑する私に老人は微笑んだ。
「僕の中にも虫がいるのさ」
「あっ」私は声にならないくらい小さな声を上げた。だから虫たちは落ち着いているのか。
「虫にずいぶん苦しめられているようだね。辛かっただろう」
 老人の優しい声と労りの言葉に心がうずいた。はじめて虫の苦しみを理解してくれる人に出会ったのだ。家族にも友人にも相談できず、藁にもすがるような気持ちで精神科を転々としたが、薬が増えるだけで何の解決にもならなかった。目の前にいるこの老人は虫を知っている。虫に苦しめられた私を知っている。蓄えられた髭のせいかもしれないが、老人が賢者か仙人、あるいは神様のようにも見えた。
 老人はかがんで私と目線を合わせ「君に仲間を紹介したい。皆、虫に苦しめられた経験がある。すぐそこだ。よかったら付いてきてくれないか」と優しく私に笑いかけた。
 話しかけられた時は突然で驚いたが、すでにこの老人を怪しむような段階にはなかった。虫を知っている人に出会えた事、虫に苦しんでいる人が自分だけではない事、そして自分の苦しみを理解してくれた事で、孤独な日々に光が差したような気がした。まだ多少の緊張感はあったが、老人についていくべきだと思った。それは彼の身体にも虫が住み着いているからだろう。私は彼の誘いに頷き、駅のホームを後にした。

 改札を出て5分くらいで小さな雑居ビルに着いた。その一室に招き入れられると、そこには3人の人間がくつろいでいた。「駅のホームで虫に苦しめられている彼を見つけてね。ぜひ君たちに会ってくれないかと誘ったのだよ」老人は私と出会った時の様子を軽く説明してくれた。
「お邪魔します」私はおそるおそる部屋に入り、方々に会釈した。自分の声を聴いて気づいたが、声を発するのも久しぶりなような気がした。懐かしい声だった。
「こんにちは」「はじめまして」老人同様、他の3人も明るく私を迎え入れてくれた。電車やホームで感じていた他人への恐怖はとうになくなっていた。
「先程話した通り、僕やここにいる3人はみんな虫に寄生されている。僕たちは虫を持つ仲間として、ここで共同生活を送っているんだ」老人は言った。虫を持つ仲間。その言葉はとても魅力的だった。私の虫たちも喜んでいるようだった。
「みんな彼に自己紹介をしてくれないか。自分自身と虫について」老人がそう言うと、「あ、じゃあぼく、いいですかぁ?」と大学生くらいの青年が手を挙げた。
「ぼくの中の虫さんは、とってもいい虫さんなんですよぉ」彼はにこにこしながら、舌足らずな声で話し始めた。「最初はやっぱりちょっと怖かったですけど、すぐに仲良しになりました。虫さんたちは元気をくれるし、ぼくがどうしたらいいかわからない時はいつも虫さんたちが相談に乗ってくれて、いっぱい助けてくれるんですよぉ」
 虫がいる事をプラスに感じている人もいるのかと私は驚いた。私の悩みの種は虫だと思っていたので、その対象に相談にのってもらうなど考えの及ばない事だった。
「まだここに来て数か月しか経っていないけど、ぼくはずっと虫さんとここのみんなと一緒にいたいと思ってるんですよぉ。あなたも仲良くしてくださいねぇ」青年はにっこり笑って握手を求めてきたので「ええ、こちらこそ」と、手を握り返した。すると彼のもう一方の手も私の右手を強く包み込んだ。私はちょっと面食らったが、彼の両手はあたたかかった。
「俺はもう虫を飼っている感覚はない」ぶっきらぼうな低い声がそう言った。声の主は190cm以上はありそうな大男だった。「俺自身が虫だ。昔の弱い俺はとっくに死んだ。虫として生きることを決めた時から俺は幸せってものがなんなのか知ることが出来た。毎日が感動に溢れているのは虫のお陰だ」大男の言葉は力強かった。そして一旦口をつぐむと、私のことをじっと見つめ「お前は自分の中の虫を恐れているのだろう?」と聞いてきた。私は虫を恐れている。大男の話を聞いた後だと、そんな自分がちっぽけな人間のように思えた。私は「はい」と小さく頷いた。
「虫を恐れているうちは苦しむだろうな。だが、お前もじきに分かる時が来る。虫は必ずお前を幸せにしてくれる。だから大丈夫だ。絶対に大丈夫だ」この大男は虫を宿していて大丈夫どころか「幸せ」だと言う。大男にそう断言されると、不思議と本当にいつか大丈夫になるような気がしてくるのだった。私の中の虫たちが肯定される事を喜んでいるから、こんなにも感情が揺さぶられるのだろうか。
「俺は虫について独自に研究もしている。気になる事があれば何でも聞いてくれ」大男は私に右手を差し出した。「ありがとうございます」大きくゴツゴツとした手のひらを握り返すと、少し勇気が湧いてくるようだった。  「最後は私ですね」特徴のない事が特徴と言えるかのような中年の女性が話し始めた。
「私は虫と上手く付き合えず過ごしていました。おそらくあなたと似た状況だったと思います。彼が私に声をかけてくれなかったら、きっと今でも私は苦しみの中にいたと思います」彼とは老人のことのようだった。「彼は私にこのシェアハウスも紹介してくれました。ここに来てから、虫が体の中で暴れることもなくなりました。そして気づいたんです。私はただ虫との対話を拒んでいただけだったのだと」彼女は私に向かってはにかむように優しく微笑んだ。「ここに来たのは先々週ですが、自分でも驚くほど変化がありました。私は学校も仕事も長くは続かなかったし、こうやって人と話すことも恐怖だったのですが、虫について学び、対話するうちに不安をコントロール出来るようになったんです。楽しいと思える事も増えました。あなたもきっと虫と上手く付き合えるようになりますよ」私は彼女の心境の変化に感動し、彼女が差し出す手を強く握り返した。彼女の手からは他人を思いやる優しさがひしひしと伝わってきた。
 老人が「よければ君の話も聞きたい」と言うので、私はぽつりぽつり自分のことを話し始めた。虫が入り込んだ時のこと、生活に支障が出てきたこと、病院に行っても無駄だったこと、周囲の人間が自分のことを噂しているように見えてきてしまったこと。彼らは黙って私の話を聞き、話が終わると口々に「大変だったな」「よく頑張った」「私たちがいるからもう大丈夫」など、励ましの言葉をかけてくれたのだった。出会って1時間ほどしか経っていないはずだが、私たちはまるで長年の親友のようだった。

「君はハリガネムシという寄生虫を知っているか?」会話も落ち着いてきた頃、老人が私に向かって聞いてきた。私は首を横に振った。老人は先ほどに比べ、やけに真剣な面持ちで話しを続けた。
「ハリガネムシはカマキリに寄生する寄生虫だ。寄生されたカマキリは死ぬ直前に水に向かうのだが、その水を僕たちは桃源郷や天国のような場所と考えている。そして体内の虫と一緒にそこにたどり着くのが僕たちの目的だと思っているんだ」私の体の中で虫たちが興奮し歓喜しているのがわかった。桃源郷、天国。なんて甘く、魅力的な響きなのだろう。けれどひとつだけ引っかかることがあった。
「ええと、カマキリは桃源郷である水に到着したら死んでしまうということですか?」
「ああ、カマキリは死んでしまう」
 老人が答えた。私はゾッとしたが、どうやらそんな感情を抱いているのは私だけのようだった。
「カマキリの死が気になるのは、君がまだ虫とうまく共生できていないからだよ」老人は私が死を恐れているのを感じ取ったようだった。
「それから、カマキリとハリガネムシの関係は我々と虫の関係に似ているが、桃源郷に辿り着いた我々が死ぬとは限らない。前例がないからね」
「もし俺たちが死んだとしても、それは些細な問題だ」大男が口を開いた。
「桃源郷に辿り着けば生き死にはどうでもよくなる。桃源郷に辿り着いた時、俺たちは虫と共に次の次元へ旅立つのだ」 虫がまたもや歓喜し、私の体内を駆け巡った。
「まだ理解が追いつかないだろうが、虫と関係性を築くうちにわかるようになる。心配しなくていい」老人が私を諭すようにそう言った。それでもなぜだろう、なんとなく私も桃源郷に辿り着く重要性を理解し始めていた。
「桃源郷、魅力的ですよねえ。早くぼくもいきたいんですぅ」
 青年がうっとりした表情でつぶやいた。
「ええ、私も魅力的に感じてきました」私がそういうと青年はパッと目を輝かせ、私の両手を力いっぱい掴んだ。「すごい!それは虫さんといい関係ができてきている証拠ですよぉ!お兄さんが虫さんと仲良くなれそうでぼくもうれしいです!」青年だけでなく、他の仲間も私の変化に驚き、褒め称えた。私はとにかく嬉しかった。真っ暗なトンネルにようやく光が差し込んできたかのようだった。
「なんだか不思議な感じです。私はここのところ何も出来ずそれを虫のせいにしていた。しかし今はなぜか晴れ晴れとした気持ちでいっぱいなんです」
「僕たちの言葉は虫の言葉かもしれない。僕たちをここに集まらせているのは虫だ。我々と同様に虫たちも喜んでいる。一緒に桃源郷を目指そう。虫の孵化、それは生まれ変わりであり、私たち人類を次のステージに進める手段になる」老人は言った。 

 その日はとても長く感じた。夜まで4人と虫について語り合い、談笑にふけった。しばらくの間こんなに楽しかったことがあっただろうか。虫を肯定されることは私自身が肯定される事と変わりなくなっていた。
そしてまた明日この雑居ビルに来ることを約束し、私は帰路に着くことにした。

 家に着き、長らく入っていなかった湯船につかることが出来た。疲れたが、いい疲れだった。
 しかし布団に潜り込み少し考えを巡らせている時だった。
 幸せ、桃源郷、虫、色々な言葉が頭を駆け巡ったあと、あたまを横切る疑問があった。
「これは本当に私の考えなのか?」
 初めて自分と同じように虫を宿した人たちと出会い、分かち合い、希望を抱いた。
 私はもう虫のことで悩まない。虫に対する不安は消え去ったのだ。それはとても素晴らしいことだし、私も望んでいたはずだ。だというのになぜ私は今、自分を恐怖し始めているのだろうか。
「これは本当に私の考えなのか?」
 そうだ、私はこの考えの変化が怖いのだ。今朝までの自分からは想像もつかない、この強大な変化。希望で満ち溢れ、不安もなくなり、健康的な毎日が待っているというのに。怖い。怖くないことが怖い。虫たちがいつもと違う奇妙な動きをしている。 なんなら虫の考えだろうと私の考えだろうと同じことではないか。
「まさか」 
 私はつぶやいた。なんだか知らない人の声のようだった。「まさか」の続きを言いかけたが、言葉が出てこなかった。

 私は明日も新しい仲間たちと笑いあえるのだし、
 いつか桃源郷とやらにたどり着くのだ。
 何も心配することはない。

 虫は未だ奇妙な動きを続けていた。しかし、それはやがて心地よいものとなり、不安は薄れ、いつの間にか深い眠りに落ちていったのだった。



ふぉにまる

短編小説を連載させていただくことになりました。ふぉにまるです。

基本的に主食は音楽と映画で、小説は高校生の頃ぽつぽつと書いていた程度で自信がないのですが、表現自体が好きなので楽しく書いていきたいです。

大雑把になりますが、1番好きな映画は『ファイト・クラブ』。漫画は『寄生獣』。小説は『ライ麦畑でつかまえて』です。
音楽は、USインディーやオルタナティブロック、UKロック、シューゲイザー、ドリームポップとかその辺が好きです。音楽を聴き始めたきっかけは母親の棚にあったブルーハーツのCDでした。日本のバンドだと他にはフィッシュマンズやたまなどが好きです。僕自身も10代の頃から宅録などの音楽をやっています。バンドも最近久しぶりに始めました。まだ動き出したばかりなのでバンド名も定まっていないのですが、そちらもよかったらよろしくお願いします。

全般性不安障害、反復性うつ病性障害があります。中学は一年生の夏休みから不登校。中学二年生から心療内科に通っています。都立高校に入ったものの対人恐怖のためまた不登校。高卒認定を取得し、日大芸術学部映画学科に入ったものの、病気が悪化し、またもや不登校からの中退。大学一年の時に発達障害(広汎性発達障害や書字障害)と診断されました。

屋良さんとは、たまたま他のアーティストのファンという繋がりで出会ったのですが、10代の頃から僕の宅録を聴いていてくれたらしく、変な人もいるなあと嬉しく思い、それからの縁で付き合わせてもらっています。

つたないところもあると思いますが、読んでもらって面白いと思ってもらえるようなものを書きたいと思います。なにより自分が楽しいと思って書けるものを目指したいです。よろしくお願いします。

『明日の眼の裏』
ふぉにまる

虫の居所 前編

虫の居所 後編